心を鎮め、真実に耳を傾けられますように。
意識の源に沈み、静寂に耳を傾けられますように。
肩の力を抜き、真理が全身を駆け抜けることを受け入れられますように。
心を鎮め、真実に耳を傾けられますように。
意識の源に沈み、静寂に耳を傾けられますように。
肩の力を抜き、真理が全身を駆け抜けることを受け入れられますように。
私どものラボラトリーメソッドの哲学的な骨格のひとつとなっている実存哲学者マルティン・ブーバーの考え方をご紹介します。ブーバーの主著は、「我と汝」という名著です。その中で、高邁な"関係性"の哲学を展開しており、今回は、その考え方の一部をご紹介したいと思います。
本書の中で、ブーバーは、世界は人間のとる態度によって2つとなるとしています。
ひとつは「われ-なんじ」の世界であり、もうひとつは「われ-それ」の世界です。
「われ-なんじ」の関係は、われとなんじが、個別な存在と言うよりは、本質的に同じ存在として認識しあえる関係であり、われがなんじと全人格的に関わり、関係性に生きる実存の世界です。
一方、「われ-それ」の関係とは、われとそれが異なった対象と認識する関係であり、われがそれを利用し、われに取り込もうとする分離と対立に生きる現象の世界となります。
その際、「われ-なんじ」のわれと、「われ-それ」のわれとでは、まったく異なった<われ>となります。
「われ-それ」の<われ>は、個的存在としてあらわれ、他を利用し経験する主観として自己を意識します。
一方「われ-なんじ」の<われ>は、人格的存在としてあらわれ、真実の関係を生きる主体として自己を意識することになります。
ブーバーによると、「われ-なんじ」の関係こそが、リアリティの世界であり、『人間や人類が「われ-それ」の個的存在に支配されればされるほど、われは、一層非現実の深みに落ちていく。現代のような(「われ-それ」の)時代には、人間や人類の中にあるわれは、再び呼び起こされるまで、地下に隠れ、いわば、無価値な存在となってしまう。』としています。ブーバーによると、現代文明の危機は、「われ-それ」の途方もない支配の結果によるものとなります。
「われ-なんじ」の全人格的な関係性を通して、「われ-それ」を癒し、自然を取り戻し、人格的存在となり、人間の全きを回復させていくことこそ大切と言えるのでしょう。
ブーバーの視点は、きわめて現代社会の問題点の本質をついているように思えます。行き詰っている現代のさまざまな問題を解きほぐしていくためのヒントや大切な指針となるのではないでしょうか。
(旧ブログより転載)
近づきたい、だけど、近づきすぎると痛い。
ヤマアラシのジレンマ。
自分以外の他者とどうかかわればいいのか?
とかく人間関係は、ままならないもの、意のままにはならない。
平和と調和が大切と思う一方、度が外れたマナー違反や悪意には、猛烈な怒りと戦いで反応してしまう。
困った隣人には、それほど寛容ではいられない。
いったい人間関係をどうすればいいのか?
人は、ややもすると、他人の考えや感情、態度や行動を、そうあるべきではないと評価したり、変えようとしたり、コントロールしようとしたり、努力するけれども、それらの試みは、たいていの場合成功はしない。
あめとムチで、不安と恐怖に付け込んで相手の態度を変えることはできるかもしれないけれども、そうしようとする原因となる相手の心の在り方を変えることなどできない。
有意義な変化は、決して外部からの圧力では起こらない。
有意義な変化は、いつも必ず内面から起るのだ。
私にとっては、理不尽で不条理な相手の態度や言動であっても、それは気の遠くなるようなプロセスを経て起こってきた結果であり、その原因は人知をはるかに超えている。
小賢しい操作が通用するものではないのだ。
できることは、ただ受け入れること。拒絶することでも、従うことでも、好きになることでもなく、ただ気づき、ありのままに受け止め、理解することだ。
相手の不快な言動は、背景には、相手が感じている身体の痛み、いらいら、悲しみ、不快感、恐怖がある。しかし、それらの苦しみは、私も体験しており、十分にその痛みを理解できる。実は、相手が感じている苦しさは、私が体感している苦しさと同じものなのだ。
相手が表現するものには、必ず原因があり、その原因は、私も体験的に理解できている。そうしようと思えば、相手を理解できるのだ。
相手の痛み、悲しみ、いかり、不安、恐怖を、ありのままに見つめてみよう。
拒絶するのではなく、自分にもあるものだと共感的に理解してみよう。
驚くことに、関心を持たれ、受け入れられたものは、容易に姿を変えていく。
恐怖は信頼に、怒りは友情に、悲しみはやさしさに。
たとえ自分にとって都合が悪く不快で認知したくないものだからと言って、それから背を向けた瞬間に、それは野犬の様に牙をむいて追いかけてくる。そしてますます強くなり、ますます手に負えなくなってくるのだ。
相手の今ここ、ありのままの痛みと喜びを、生まれ、傷つき、喜び、学び、年を取り、死にゆくそのすべてを見つめ、受け止めて、理解してみよう。
相手の長所も欠点も、価値あるものとみなして、しっかりと見つめ、受け止め、理解してみた瞬間、分離感が癒され、和解が起こり、疑いから信頼へと、痛みから平和へと、関係性の変容という奇跡が起こる。
大切なことは、自分にしろ他人にしろ、裁くことでも、罰することでも、操作することでもない。
ただ受け入れること。真に愛することが大切なのだ。
自分の中で起こっているさまざまなことがら、思考、感情、呼吸、消化、血液循環、緊張、反応、・・・。
それらは、化学反応と同じように、素材と条件が整えば、必ず起こる。
意思の力で止めようとしても止められないし、変えようとしても変えられない。
あなたにとっては、理不尽に思えるような、あるべき姿ではないと思えるような反応であっても、それは気の遠くなるようなプロセスを経て起こってきた結果であり、その原因は人知をはるかに超えている。
小賢しさが通用するものではないのだ。
できることは、ただ受け入れること。拒絶することでも、従うことでも、好きになることでもなく、ただ気づき、ありのままに受け止め、理解することだ。
自分にとってかかわりたくない事柄であっても、縁あって自分に起こっていること、しっかりと気付き、受け止め、そして十分に体験してみよう。
それがどんなに不快な恐怖であっても、立ち直れないような深い悲しみであっても、逃げるのではなく、向き合ってみよう。それらは、起こるべくして起こったこと、価値あることなんだという思いで、よく体験してみよう。
驚くことに、関心を持たれ、受け入れられたものは、容易に姿を変えていく。
恐怖は注意深さに、怒りは改善への行動に、悲しみは思いやりに。
たとえ自分にとって都合が悪く不快で認知したくないものだからと言って、それから背を向けた瞬間に、それは野犬の様に牙をむいて追いかけてくる。そしてますます強くなり、ますます手に負えなくなってくるのだ。
快も不快も差別することなく、価値あるものとみなしてしっかりと気付き、受け止め、体験してみた瞬間、分離感が癒され、和解が起こり、容易に手放すことができるようになる。
大切なことは、自分を裁くことでも、罰することでも、操作することでもない。
ただ受け入れること。真に愛することが大切なのだ。
受け入れる力を人生に活かすためにはどのようにすればよいのか?
まずは、自分自身を受け入れること。
私は、自分自身について、どの程度分かっているだろうか?
私には、さまざま私がいる。
私がわかっている私、私が気付けていない私。
私が好きな私、私が嫌いな私。
私がコントロールできる快適な私、私がコントロールできないやっかいな私。
私がそうなりたいと思っている理想の私、そうなりたくないと思っている絶望の私。
私が人に見せたいと思う素敵な私、人に見せたくないと思っているおぞましい私。
さまざまな私をリードしようとする私、従う私、意のままにならない私。
さまざまな方法で内面をリードしようとする私、独裁者の私、弱腰の私、暴君の私、陰謀家の私、評論家の私、検事の私、裁判官の私、信念の私、熟考の私、短慮の私、・・・。
私の混沌とした内面を支配し、そうなりたい私、そう見せたい私になるために、私は、さまざまな努力をしている。
私を裁くこと...こんな私はダメ人間だ、こんな私は罪びとだ、こんな私は死んだほうが良い、・・・。
私のままならない面を脅し怒ること...何やってもダメなバカ者なんだな、このままだとのたれ死にだぞ、そんなだとみんなから嫌われて非難されるぞ、未来は不安と恐怖が待ってるぞ、・・・。
私の嫌いな側面を攻撃すること...なんてダメなやつ、死んじまえ馬鹿野郎、お前なんか生まれてこないほうが良かった、・・・。
私を矯正すること...そんなことは考えちゃだめだ、そんな感情は起こっちゃだめだ、そんな態度はだめだ、そんなことしちゃだめだ、・・・。
私の支配権をめぐって戦うこと...そんな生き方じゃだめだ、もっと考えないと、もっと感性を大事にしないと、もっと直感を信じないと、もっと行動しないと、人に迷惑をかけるべきではない、人に迷惑をかけてもしかたがない、人を傷つけるべきではない、人を傷つけても仕方がない、自分が反省すべきだ、人を責めるべきだ、あっちがいい、こっちがいい、・・・。
私をリードするために、私は、効果があるかどうかは別として、さまざまな努力をしている。
ただ、していないことは、私を受け入れることだ。
私は、いまここで、どんなあり方なのかということ、そんなシンプルなことを受け止めて理解していない。
実は、私にまつわる多くの問題は、そこに起因しているのだ。
受け入れることは、分離感をいやすということ。
あなたがいったん受け入れることを始めたら、あなたと世界の間で存在していた幻想の壁、断絶、分離の緊張が和らぎ、癒され、内と外が共鳴し始めることに気づくだろう。
不安や恐怖は、分離感の申し子。分離感が弱まれば、不安や恐怖も鎮まる。受け入れることは、不安と恐怖の根本をいやすのだ。
受け入れることを通して、あなたは、より自由になり、より自分らしく輝くようになる。
あなたが変われば、周りも変わる。あなたの輝きを受けて、あなたがかかわる人たちが、次第に、微妙に、根本的に変わってくることを次第にあなたは気づくだろう。
受け入れることは、愛するということ。愛するということは、まさに、太陽の力。自分も他人もより自分らしく自由で輝かしく力強いあり方へと優しく変容を促すのだ。
受け入れるということ、それは、拒絶することとは違う。
拒絶することは、受け入れないことであり、受け入れることではない。
受け入れること、それは、同意することとは違う。
同意することは、他者の言うことを正しいと自分が思うことであり、受け入れることは、他者がそれが正しいと主張していることを理解することである。同意していなくとも受け入れることはできる。
したがって、受け入れることと従うことは違う。
受け入れたからといって、従う必要はまったくない。また、従うことは受け入れたことの証明ともならない。受け入れなくとも従うことはできるからだ。
受け入れることは、好きになることとも違う。
好き嫌いは実はたいした問題ではない。食べ物の好みが時とともに変わるように、好き嫌いは移ろいゆくもの、本質的なものではない。乗り越えられるのだ。
受け入れるとは、相手のありのままを受け止めて、ありのままを理解すること。
受け入れるとは、相手を裁いたり、操作したり、変えようとすることではない。そのままの相手を、そのままに理解しようとすることである。
受け入れることは、途方もない大きな力を持っている。
それは、北風ではなく太陽の力。
暴力ではなく、優しさの力。
改善の力ではなく、革命の力なのだ。